REASON
REASON Ⅰ誰に唆されてもいないし、何かを要求された訳でもない。
以前に勧誘を受けたのは事実だが、今回のこととはまったく関係ない。少なくとも俺は、寄付金の恩恵で入学するつもりなんかない。
自分の意思で決めたことだ。
この町を見捨てるとか、見切りをつけるなんていう問題でもない。ここは一生ずっと、俺の生まれた場所だ。忘れられるはずがない。忘れようとも思っていない。
けれど……
俺を駆り立てるのは、野心なのだろうか。
ここには、ない。
ここにはいない、消えてしまった。いなくなってしまった。昨日までそばにいたのに、今日には跡形もなかった。
待っても戻って来ないのは分かってた。だから……
俺をここまで駆り立てるものは……
追おうとしているのは……どうしても追わずにいられないのは……野心や野望の類じゃない。もっと単純に、わがままな子供のように、ここにはいない誰かをもう一度見たいだけ、名前を呼びたいだけだ。
ほんの少しの建前は口に出来ても、本当の心は偽れない。
今の俺には、この町を出る理由がある。
◇
「倉鹿に電話するぞ」
「いま? みんなと話せるの?」
一瞬でも長く、このままでいたいと思った。素直に、合格の喜びに顔を輝かせたまま、いるかは俺の腕の中にいる。
「もうほんと、ほんと、信じらんない。うそみたいだぁ……」
「……」
「信じらんない……ほんとにあったの、345番? もう一回見たら、消えてたりして……」
「そんな訳あるか。俺がちゃんと見たよ」
「……うれしい。また、おんなじ学校に行けるんだ……」
そう呟きながら、いるかは我に返ったのだろう。照れた顔をして後ずさる。――嬉しいと言った時、いるかの目はあまりにもまっすぐに俺を見つめていた。
「あ、そうだ。あたしも母ちゃんに電話しないと!……倉鹿のじいちゃんにも。春海もほら、徹くんに電話して」
「うん」
この日、里見学習院近くの公衆電話はどこも大渋滞だった。俺はまず徹と藍おばさんに――自動的に親父にも連絡が行くようになっているんだろうから――報告をした。その次に、進の家の電話番号。
自宅と、倉鹿の如月院長宅に電話を終えたいるかが、俺の方に寄ってきた。
自分の数字を見つけた瞬間からずっと、顔のすべてが笑っている。にこにこ、という擬音以外にあり得ない笑顔で俺を見上げる。
前もって聞かされてはいたが、進の家には男連中が集っていた。二人の合格を知らせると、進たちは叫び――俺のことはすっかり放置して――いるかの大奮闘に対して、惜しみない賛辞を送ったのだった。
「うん、ほんと。ほんとだってば! あたしだって信じらんないよ。でも、春海がちゃんと確認してくれたし!……うん、ありがとね。……あ、もしもし? 一馬なの? うん、ありがと! えへへ、みんなにご心配かけちゃって……わあ、久しぶりだね、兵衛。そう、そうなの、うそみたいだけどさ。ねえ……ほんと、ありがとうね。え? 湊と博美、進の家の前にいるって? 何それ……ねえ、呼んで来てよう。うん、お願い!」
そんな調子で延々と、倉鹿の友人たちへの報告が続いていたが……俺は、そっといるかの袖を引いた。
「後ろが殺気立ってる。また家から電話できるんだし、適当なところで終われ」
「あっ、そうか。――ごめんね、公衆電話だから後ろが行列になっててさ……とりあえず切るね。また、家に帰ってから。……うん、ほんとにありがと。じゃあね」
受話器を置いたいるかは、申し訳ないというように、すぐ後ろで待っている男子に頭を下げた。
「へへ、しゃべりすぎちゃった」
「大川と日向も来てたのか?」
「進の家の前で、一時間も前からうろうろしてたんだって。入れよって進が言ったらしいんだけど、落ち着かないから外にいるって……みんな、心配してくれてたんだねえ」
「そうか。……でも、よかったな。いい報告ができて」
「うん……」
歓喜の次には、脱力が待っていた。
無理もない。半年前には無謀と言われた受験だったのだから。
いるかの気持ちは本当に嬉しかったし、やり抜くと決めた時の彼女の底力もある程度は知っているつもりだった。しかし、編入時にほとんど何の試験も課されなかったという修学院とは何もかも事情が違う。
ただでさえ狭き門の里見学習院だ。当然、いるかは公立高校も受験する予定だった。俺はどんな結果でも受け入れるつもりだったから……俺が上京しさえすれば、学校が違っても近くにいられるのだから、それ以上は望まない。――そこまで話し合ったことはなかったが、俺もいるかも同じ心境だったはずだ。
「……ほんと、あたし、受かったんだねえ……」
「大したもんだよ、本当に」
「うれしい」
「……」
「うれしいなあ……」
「……」
ここに誰もいなけりゃ、抱きしめるところなんだがな。
よくやったな、と何度も誉めてやりたい。頬を撫でてやりたい。甘やかすという行為にはほとんど馴染みがないが、今日ばかりは別だ。ただ、少しばかりの問題もある。今、この感情が行き過ぎてしまう危険だ。
実際的なことを考えよう。
何はなくとも、入学手続きの書類を受け取り――実際に提出するのは明日だった――帰宅すべく駅へ向かう。
俺は昨日から二泊の予定でホテルに泊まっていた。手続きは全部、自分一人でどうにかなる。入学金の振込みについても用意は整っているので、親父の御出座を待つまでもない。
いるかは明日、母親と手続きに行くのだと言った。
「手続きは別々でもいいんだけど、春海、夕方にはもう帰るんだよね?」
「ああ、俺は朝一で書類出すから」
「あたしも多分、午前中にはここ来るけど……」
「無理すんなよ。明日はここで会う必要もないし」
「会ったっていいんだけど、母ちゃん、春海のこと知らないからなあ……」
いるかは、口の中で呟いた。
「手紙と電話で、名前は覚えてると思うんだけどさ……よく手紙くれるのね、とか言われたこともあるし……」
「……」
明日いきなり、いるかの母親とご対面ということになるのか? そうなれば、いるかは俺のことをどう紹介するつもりなんだろう。……まあ、そんな深刻に考えることもないか。
倉鹿修学院の同級生だった友だち。鹿鳴会という名の生徒会で共に会長だった友人。今はそんなもんだろう。むしろ、友人以上の相手なのだと紹介される方が驚くし、俺もどうしていいか分からず困ってしまう。――それにしても、上京したらいずれは挨拶……のようなことをしなくてはいけないのだろうか? いるかの両親に。
どうも、よく分からない。今までずっと、学校でも私生活でも俺たちのことは如月院長が見守ってくれていた。そこから一変して、いるかの両親は俺のことを何も知らないだろう。倉鹿での、ほんの僅かな名声など武器にはならない。
「春海? どしたの」
「……」
これも試練か。
新しい局面が訪れる、新しい出会いが待っている。知らない世界が待ち受けている。でも怯んだりしない。今の俺は、新しい予感に何とも言えない身震いを感じている。……そして、これからずっと、こいつは俺のそばにいるんだ。俺はいるかの隣にいられるんだ。
「いるか」
「うん?」
いるかはとにかく、自宅へ帰らなければいけない。明日の手続きに関して母親と話すこともあるだろうし、同じ顔をした従姉妹に電話もしなければいけないと言っていた。
まさか俺の泊まっているホテルへ呼ぶこともできず――どれほど大きな歓喜でも、無謀な勇気を呼び起こすことはできなかったし、言わせてもらえば今日の俺は疚しい願いなど抱いていなかった。本当にただ、嬉しかっただけなのだ――ここで一旦は別行動ということになる。
「なに? 明日、何時に待ち合わせ?」
「そうじゃなくて……本当に、おまえ、頑張ったな。よくやった。――偉いよ」
「……」
いるかは、くしゃっと顔を歪ませた。張りつめていた糸が切れるように。
「もう、あたし、それに弱いんだよう……春海に誉められるのって……ねえ、……ほんと?……」
「本当に。おまえは頑張った」
「……」
いるかは一瞬、その小さな体の重みをすべて俺に添わせて、寄りかかった。
腕の中に包んでしまいたかったが、電車を待っている最中ではどうしようもない。
「あたし、うれしい。……ほんとにうれしい。ありがと……」
「……」
そうだ、この声。
笑顔も、今にも泣きそうな目も……このすべてが、俺の理由なんだ。
建前はいくらでも言える。親父はいずれ俺たちを呼ぶはずだったとか、里見への憧れとか、大きな場所で自分の力を試してみたかったとか。これから知り合う人間を煙に巻くことは可能だ――いるか以外には。
まあ、倉鹿の連中にだってごまかしようはないけれど。
翌日、俺といるかは東京駅で別れた。
予定では、俺と徹は三月後半に上京することになっている。少しずつ荷物の整理は始めているが、倉鹿に戻れば本格的に忙しくなるだろう。
里見受験について徹には最初から相談し、承諾を得ていた。けれど、生まれた家と通い慣れた小学校を離れることが昨日の合格発表で決定的になり、兄としてはやはり申し訳なく思う。電話ではひたすら大喜びしていたが……
東京にまでついて来てくれることになった家政婦の藍おばさんにもだ。
だけど、俺は弟を信じよう。僕も東京に行くと言ってくれた弟を。
親父はどうせ当てにならないだろうし、徹が新しい家と学校に早く馴染めるように、俺にできることは何でもしよう……
来月には卒業式も待っている。今年はさすがに、鹿鳴会の全員が三年生ということもあって歓送会の劇に縁がないのは幸いだ。
それとは別に、進たちが送別会のようなものを企んでいる節もある。詳細はまったく分からないが。
まだまだ忙しいし、慌しい。
会長の俺には役目も残っている。卒業式で答辞を読むという役目が。
「これ」
「ん?」
「倉鹿で買ってきたんだ。おまえの好きな煎餅と、どら焼き……最中と羊羹も。いろいろ箱に詰めてもらった。あと、クッキーも」
「わあ、おみやげ持ってきてくれてたの? ありがと!」
「土産っていうかさ……まだまだ早いんだけど、十四日には会えないからな……」
「十四日?」
「三月十四日」
お返しだよ、と俺は言った。いるかは途端に、居たたまれないような顔つきになった。
「だって、今年のはお店で買ったチョコだったし……まさか受験日が二月十四日なんて思わなかったからさあ……お返しなんて、もらうほどじゃ……」
「いいから、ほら」
「……ありがと」
いるかは小さな声で、「でも、あたしが作るより、お店の方が絶対おいしかったと思う」と付け足した。――何を言ってるんだか、まったく。そういう問題じゃねえだろ。でも、味なんかどうでもいいって宥めても怒るだろうしな……
「じゃあな。また電話するから」
「うん。引越しの日、決まったら教えてね」
「俺の卒業式と、徹の終業式が終わったあとだから……そうだな、なるべく早く決めるよ」
「……卒業式」
いるかは笑顔のまま、ぽつんと呟いた。
「……修学院の、卒業式かあ」
「……」
「あたしも、そこに居たかったな……」
「……」
とてつもなく大きな戦いに勝利しても、叶わない願いはあるものだ。いるかは四月、桜が咲く頃には里見学習院の入学式に出席できる。なのに修学院の卒業式には入れない。
「本当に、な」
いるかの髪に手を置いて、俺は笑ってみせた。
「修学院の皆、そう思ってるぜ。なんで如月会長がいないんだって」
「そうかなぁ……」
「アルバムは、おまえの分もちゃんとあるから。引越しの時に持ってくる」
「うん」
「……学校側が式の写真も撮るだろうから、なるべくたくさん焼き増ししてもらうよ。それでいいか?」
「うん」
「よし。それじゃ、おまえもあと一ヶ月頑張れよ。まだ終わってないんだから」
「了解! 新入生代表さん!」
やっと元気が出たらしく、いるかは和菓子の紙袋を提げていない方の手をぶんぶんと振り回して俺を見送った。――新入生代表というのは今日、高等部の事務室で入学手続きをした時に知らされたことだ。新しい学校の入学式で、俺には早くも役目ができてしまったらしい。
まあ、それは四月のこと。まずは卒業式だ。倉鹿へ戻るレールは卒業式に向かっている。
いるかの姿が見えなくなった。奇妙な既視感だった。
今度は俺が、電車で消える側なのだ。
誰かに唆された訳じゃない。誰にも、この意思を預けることはない。
自分で決めたことだ。
突き動かされる、駆り立てられる。今まで知らなかった感情に揺さぶられて、無我夢中で走らずにいられない。
だから、俺には理由がある。
生まれた町を後にしてでも、この手で掴みたいものがある。
きっと倉鹿は許してくれるだろう。そう、きっと……俺を許して見送ってくれるだろう。こんなふうに――
(あの娘が相手では仕方もあるまい。倉鹿はいつまでもこの地にあって消えることもないが、あの娘は突然、何も言わずに逃げるからのう)
白昼夢の中で、よく知った誰かの声が倉鹿そのものになった。
REASON Ⅱ
倉鹿修学院という場所で過ごすのも、残り一ヶ月を切った。
ただし、これは俺の個人的事情である。
ほぼすべての生徒はそのまま高等部へ進むので、歓送会や卒業式が待ち受けるこの時期になっても学校内は穏やかなものだ。
一年、二年生は賑やかに三年生を送り出そうと劇の稽古に励み、気の早い連中は四月に向けて――鹿鳴会選抜に向けて鍛錬を始めたりする。私立学校特有の呑気さかもしれない。
毎年そんな光景が繰り返されるはずなのに、なぜだろう。今年は何かが違っていた。
これが最後なのだという俺の感傷かもしれない。今見ているものすべてが、もう今月末には日常の光景から消える。
古い城下町と大きな川。通い慣れた道に沿って並ぶ木々。路地裏、坂道。
春の桜、山から吹きつける夏の嵐、秋の紅葉……そして、堂々とした歴史ある学校での日々も過去のものになる。
そうは言っても、しみじみと別離の寂しさに浸っている暇はなかった。家はそのまま置いておくにしろ、住んでいる三人全員が上京するのだからやはり準備は大変だ。
徹は、思ったよりも逞しい様子だった。
倉鹿を離れるのは寂しいだろうに、俺には何も言わず果敢に荷物をまとめ、東京の地図を眺めたりしているのだった。――お兄ちゃん、いるかちゃんの家とはちょっと離れちゃうんだね、と残念そうに呟きながら。
「春海ぼっちゃま、手荷物以外は業者さんが梱包してくれますからね」
家政婦の藍おばさんについては、独立した息子さんが倉鹿に住んでいることもあり、わざわざ東京に来てもらうことには躊躇があった。本来なら息子さん一家と同居するなり何なり、のんびりと暮らせるはずなのだ。
俺たちが上京ということになれば、おばさんは家政婦という仕事から身を引いてもおかしくない。親父が何と言おうと、無理やり連れて行くのだけは避けたかった。
もう十分、彼女は俺たち兄弟の面倒を見てくれた。あの事故から早くも四年になろうとしている……
母がいた時から家事を手伝いに来てくれていた女性。四年前からはこの家に住み込んで世話をしてくれた。家族ではないが、ずっと家族のように暮らしていた彼女と離れる覚悟はしていた。徹にもそれとなく言い含めておいた。
しかし、去年の秋の段階でおばさんは承諾してくれたのだ。
場所が変わるだけで、私の仕事は同じですよと。親父がどう彼女に話したのかは知らない。こんなことになった以上は、給料を最大限引き上げるぐらいの待遇でなければ許せないと思うが、親父のことだ。そこは抜かりなく事を進めているのだろう。まったく笑えない話だが、水面下での交渉については信頼が置けるからな。
俺はともかく、徹のことを放っておけないというのが恐らく彼女の本心なのだろう。有難く、その言葉に甘えることにした。
やはり、東京で新しい家政婦を雇うということになれば、即住み込みにできるはずもなく当分は通いになるだろうし――俺たちとうまくやって行けるかどうかも分からない。煩わしいことが増えてしまうのだ。
「うん。本を少しだけ、手荷物で持って行こうと思って」
「普通の引越しとは違いますからね。食器はほとんど全部置いていきますし、家具なんかも東京のお家に入りきらないものばかりですしねえ……」
「そうだね」
「私もよく知っている方が管理して下さるそうですし、留守の間もお家のことは心配ないですね。――もうすぐ、夕ご飯ですよ」
「あ、もうそんな時間か。どうりで腹が減ってるはずだ」
「すぐですから」
おばさんは笑い、台所へ戻っていった。
ひとまず、ここで終わりにしておこうと数冊の本を机に置いた。そこには昨日届いたばかりの封筒もあって、何とはなしに開いてみる。……冒頭だけはやけに力が入ったですます調と丁寧な字なのに、二枚目、三枚目になるとほぼ完全な口語になるのがおかしかった。
(……かもめとタクマ、同じ高校に決まってうれしそうです。かもめも、頭のいいタクマといっしょの高校に行きたいからって、すごく勉強してたからね。あたしたち、いとこで同じことやってるねって笑っちゃった。これで私立も公立も受験はぜんぶ終わって、あとは卒業式を待つだけになりました。
倉鹿のみんなは元気ですか? 春海の引越しに合わせて、あたしも、一日だけでも倉鹿に帰れたらいいなあ……なんて思ってたんだけど、入学の準備も色々あるし、やっぱり無理みたい。高校生になる前に、みんなと会いたかったな。残念です。
ええと……おととい、制服の採寸をしました。里見の制服って、セーラー服じゃないのは知ってたけど六段中みたいなブレザーとも違ってるんだね。けっこう珍しいねってかもめが言ってました。男子の制服も、やっぱり修学院の学ランと全然違っててさ。春海が着たら大人っぽく見えるだろうなあ)
新しい制服。新しい生活への期待、興奮。
そして倉鹿への望郷。いるかの手紙には、俺がこれから振り切ろうとしているものへの懐かしさが滲んでいた。
今は寂しいだろう。あいつは転校生だったから入学式にも出ていないし、三年生の秋にはもう修学院の生徒でなくなっていた。あれほど学校中を騒がせて、賑やかにして、いつの間にか学校の中心だったのに――それでも、いるかはこの倉鹿修学院の卒業生にはなれない。
今は東京でひとり、寂しくて仕方ないのだろう。でも、もう半月もすればその望郷の思いを俺が共有できるようになる。
置いていくものは同じだから……
(……もちろん、六段中を卒業するのだって寂しいんだよ。かもめとだって、これでほんとに学校が別々になるし……でも……やっぱり、あたしの気持ちって六段中のみんなとは違ってるみたい。だって、三年間の半分……ちょうど半分は修学院にいたんだもん。うまく言えないんだけど……なんだか落ち着かなくて。だからね……早く)
昨日からずっと、繰り返し同じところを読んでいる。
(……春海が来てくれたら、たぶん、そういうのもぜんぶ消えると思う。早く東京に来てね、待ってるからね。いるか)
便箋の罫線の中には収まらず、右下の端ぎりぎりに書かれた名前。俺がこの名前を簡単に忘れることができたなら、今頃、倉鹿を離れようと考えもせず過ごしていたに違いない。――それとも、私中連会長に誘われるまま中学三年でさっさと上京していただろうか?
そこでも要領良く優等生の称号を得て、中等部から高等部に上がってそれなりにうまくやっていたんだろうか。支えになるものが何も無い、上っ面だけの野心と自尊心でいっぱいになって。
今が幸せかどうかなんて、自分では分からない。この先、東京で何があるのかだって予想はできない。けれど俺はもう、いるかと出会う前の俺に戻れなかった。
「お兄ちゃん、ご飯だよ!」
食卓から、徹の呼ぶ声。
「すぐ行くよ」
そう答えた俺の言葉は、徹ではなくて東京へ向かっていた。
行くよ。今すぐ行く。
もう歯止めなんて効くもんか。行くと言ったら、俺は必ずそうするからな。
◇
「見た目はほとんど変わらねえのに、なんか――がらん、って感じだな」
進がそう感想を述べた。卒業式を一週間後に控えたある日、俺の家で。
「箪笥とか机とか、そのまんまなのにな」
今日は、内輪だけの送別会だった。といっても堅苦しいことは何もない。飲み物、食べ物を持ち寄って、ただ騒いで別れを惜しむだけの。
「こんなでかい箪笥、東京には持って行けねえよ。机とか食器棚とかも……何しろ、向こうじゃマンション住まいだから」
「広いのか?」
「まあ、それなりには。三人全員に個室ってのが条件だし」
一馬と兵衛が、ふむふむと頷いていた。
「そりゃあ、自分の部屋は要るよなあ……」
「そういう年頃だしな」
進が何気なく言う。俺は聞かない振りをした。
「――でも、帰って来た時には便利じゃないか? 家具がほとんどそのままってのは」
兵衛が、それとは知らずに助け舟を出してくれる。
「何日でも泊まれるだろ。夏休みとか」
「そうだな」
「夏は絶対帰って来いよ、おい」
「確約はできねえけど……野球で夏が塞がらない限りは、な」
高校の三年間にしか挑戦できないことと言えば、やはり甲子園だろう。里見には『彼』がいて、四月からは高等部二年生になるはずだ。二年間は彼とチームメイトでいられるのだから、俺が野球を選ばない理由は無い。
「ああ、そうか。いよいよ高校野球か」
「おまえのことだから、半年後には甲子園だな」
三人が顔を見合わせる。俺らも夏には応援で甲子園行きだな、と言いながら。
「さすがに、そんな甘くはねえだろ。今度から東京だろ、予選だけでも大変だぜ」
「……」
「……」
俺たちは男同士だから、別れが近づいても泣いたりしない。
もう十年にもなるだろうか。
幼稚園からのつきあいで、小学生になると完全に固定化した四人になり、色々なスポーツを経験していく中でそれぞれの得意分野を見つけていった。揃って修学院に入学早々、鹿鳴会としても同志になった。今さら、俺が少しばかりこの町を離れることになっても――何年の留守になるのかは分からないが――今さら揺らぐような仲じゃない。
少なくとも俺はそう信じている。
「……」
「黙り込むなよ。おまえら」
沈黙に耐えられなくなったのは俺だった。
「黙ってねえで、何か言えよ」
無理やり笑ってみせると、一馬が俺のコップにジュースを注いだ。
「……まあ、そのうち慣れるだろ。この家はそのままで、おまえと徹がいないっていうのにも」
「……」
「おまえには、晴れの門出だもんな。湿っぽい追い出し方はしねえよ。心配すんな」
「……」
「いるかと、うまくやるんだぜ」
そこで三人はようやく、俺をからかうような表情になった。しんみりされるよりは、まだそっちの方が良かった。
「ああ」
初春の午後、穏やかな倉鹿の陽射し。縁側からの眺め。ずっと日常だったこの景色。――俺もふざけた返事をしようと思ったが、結果的には馬鹿のように真面目な言葉しか出なかった。
「ああ。努力するよ」
「みんな、乾杯しよう」
兵衛がまた、重々しく言ってコップを掲げた。
「春海の出発に、乾杯」
その次は一馬。
「おまえの勇気に乾杯」
最後は、進だった。
「――不滅の鹿鳴会に、乾杯!」
俺たちは男だから、一時の別れに泣いたりなんかしないんだ。
そして、卒業式の朝は春の青空に彩られていた。
威容を誇る倉鹿修学院の正門、そこへ続く道。石の階段を上がるのもこれが最後だった。
教師の席には、世話になった先生方が並んでいる。少し離れた特別な場所に座っているのは如月院長。――里見合格の報告以降、院長と一対一では話をしていなかった。今月に入ってから、三年生は式まで休みだったのでそれも当然だったのだが。
前述の通り、ほぼすべての生徒は修学院高等部へ上がっていく。俺たち鹿鳴会の連中は務めがあるので毎年卒業式と入学式には出席していたが、特に感傷に満ちた雰囲気になることもない。
最後だと思うのは、あくまでも俺個人の感情だ。卒業生の代表として述べる答辞に影響があってはならない。式次第は順調に進んでいき、在校生の送辞のあと、俺は答辞を読んだ。
この三年間、先生方にはお世話になりました。――高等部でも修学院の名に恥じないよう勉学と武道の鍛錬を続け……古来からの精神を身に刻み……云々。長くなりすぎず、簡潔にまとめたつもりだった。悪い出来だとは思わなかったが、読み終わったあと俺が一礼し、席に着いたあと。
少しずつ……少しずつ、ざわめきが広がっていった。何なんだ?
このあと、院長の言葉があるはずだが……
ざわめきが収まらない。困ったことに進も一馬も兵衛も同じクラスではなかったので、彼らの様子も伺えない。これはいったい、どうしたことだ?
同じクラスではあるが、大川と日向は女子の列で、しかも俺より前の席なので表情が分からない。
やがて、その奇妙な空気の中で院長が壇上に立った。
「――さて、諸君。君たちの言いたいことはよく分かる」
何なんだ? 俺にはさっぱり、分からない。
「諸君、静粛に。院長のわしからも願うてみよう。再度の登壇を」
ざわめきが止まった。院長は手を差し伸べた――卒業生の列に向かって。正確には、三年雪組の列に向かってだ。
「君の答辞を――倉鹿を離れる君の本当の言葉を聞きたいと、卒業生全員が待っておるよ。いや、ここにいる全員じゃろう。生徒も教師も……」
これほどの人の波で、なぜまっすぐ一人だけの顔を射抜くことができるのだろう?
「母校修学院へ、ありのままの言葉を聞かせてやってほしい。山本春海」
卒業式にすら親父は来ていない。忙しいのは事実だろうし、親父がいなくても支障はない。それはそれで構わなかったが……藍おばさんと徹は保護者の席だ。
……いや、そういう問題じゃない。親父がいてもいなくても関係ない。型通りの答辞でなくて? 倉鹿を離れる俺の言葉を……?
それは俺だけの感情であって、皆を代表する言葉ではないはずだ。
最後だ。これが最後だと思うのは俺だけの事情なんだ……
再び、講堂中にざわめきが広がっていく。
無意識に席を立ち、俺は如月院長の待つ壇上へ――後日、進に聞いたところでは、俺はまったく取り乱すこともなく堂々と顔を上げて、すべて想定内といった表情だったらしいが――歩き始めた。
いつもいつも、あらゆる事態を考えて、対処法を頭に入れているはずだったのに。今日に限って何ひとつ計算していなかった。
こんな経験は初めてだ。
REASON Ⅲ(CHILDHOOD'S END)
卒業生代表としての答辞は読み終えてしまった。
俺の役目は終わった。終わったはずなんだ。再び呼ばれたところで、言うべきことはもう何もない……
最後まで俺の信念は変わらないというのに。それは皆も知り尽くしているはずなのに。
壇上へたどり着いた俺を見て、如月院長は軽く頷いた。
「皆が待っておるのは、旅立つ君の言葉じゃよ」
「……」
「ほんの一言でも構わん。聞かせてやってくれんか」
「……しかし、もう答辞は……」
「君は三年間、この学校を率いて本当に良くやってくれた。我が倉鹿修学院の誇りじゃよ。そんな君に、最後の最後に公私混同をすると一体誰が責めるかね?……それに、な」
院長は身を引きざま、付け足したのだった。
「あれの気持ちを代弁できるのは、君だけじゃ」
「……」
マイクを通さない、数秒の会話だった。
俺は再び一人になり、壇上から見下ろしていた。――同期の卒業生たち、その保護者席。そして中等部の先生方を。
どこかに進がいる。一馬と兵衛がいる。
俺と同じ雪組には日向と大川が、そしてまた違う列には銀子が、伊勢が――卒業の日にまさか別れを惜しむ友人になるのだと、入学当初は思いもしなかった女番長たちが――座っている。
(やるからには負けないのがあたしの主義なんだ!)
(あんたに決闘を申し込むよ、如月いるか! あたしに勝って、鹿鳴会メンバーの資格を取ることができる?)
(あたしは絶対、サッカーはやらないよ。あんたたちが負けようがのたれ死のうが、知ったことか!)
(今までシカトしてくれた詫びは、コートで入れてもらおうじゃないか)
いつの間にか、友人の輪に加わっていた二人。
(博美のソフト部が廃部? 金がもったいないからって横暴だ! この冷血漢!)
(いやだ、あたしが投げるんだ。今負けたら、あの子たち学校中からバカにされたまま終わっちゃう。そんなの、あんまりだよ!)
(みんな、何が何でも死守するのよ! 絶対点を守るのよ!)
それまで、負け試合しか知らなかったソフトボール部。
(女子部部長は認めるわ、如月いるかは選手です! あんたって男はどこまで融通がきかないの!)
(今年はみんな、いるかちゃんに鍛えられたんだから)
(その如月先輩と試合に出なきゃ、話になりませんよ)
(ありがと、湊! ありがとう、みんな!)
敢えて、怪我人の主将を受け入れた女子剣道部……
(鹿鳴会の諸君! 思いきり稽古をつけてやってくれ!)
俺たち鹿鳴会について回想しても、結果は同じだった。いつでも、どこにでも……あいつの声が、あいつの怒ったり笑ったりする顔が見えた。
何てことだ。
今さら動じる俺も俺だ。どうして今まで気づかなかった?
何てことなんだ、思い出は全部あいつと結びついてしまっていた。まるで中学時代は十四歳から……二年生の春から始まったかのように。
あいつがいなかった頃の思い出なんて何もない。いや、何もないはずがない。けれど飲み込まれる。あいつがいた一年半の思い出に圧倒され、押し流されてしまって跡形も残らない。
(あたしはね! チビって言われるのがいちばん嫌いなんだ!)
(……春海っ!)
(転校の話、聞いたよ。おめでとう)
(だめだめ、食べちゃだめ!……自信ないんだから……)
何てことだ、如月いるか。
おまえが今この瞬間、東京でどれほど寂しい思いをしているのか、俺はやっと分かった気がする。
思い出を持て余して、ひとり泣いているかもしれない。
おまえのいない卒業式を迎えた俺たちと同じように寂しいだろう、悲しくて仕方がないだろう。
それなら、俺にできるのは――
「……少しだけ、時間を頂きたいと思います」
恐ろしいほどの静寂だった。
「個人的な話で申し訳ないのですが……僕は、この四月から倉鹿を離れます。僕にとっては今日が、修学院での最後の一日です」
誰の顔も、壇上からはっきりとは捉えられない。
親友たち……進、一馬、兵衛。
いるかの友人たち、日向、大川。そして銀子と伊勢。
剣道部、野球部の皆。雪組の同級生たち、そして、俺を会長と呼んでくれたすべての生徒たち。
「三年前、新入生ながら鹿鳴会会長という役目に就き……僕を含めた四人で、全力で務めを果たしてきたつもりです。今日という門出の日も、そして入学した年も僕らは四人の鹿鳴会でした。――けれど、卒業生の皆は……いえ、恐らく修学院すべての人が、もう一人の会長のことを忘れることはないでしょう」
担任の松平先生。今では男子、女子サッカー部になくてはならない存在となった伊勢の兄さん――伊勢先生。大勢の先生方と、如月院長。
「……彼女は今日、ここにはいませんが……修学院の卒業生にはなれませんが、皆が忘れない限り彼女は修学院の生徒だと……僕は、そう信じています。どれほどこの卒業式に出たかっただろうかと、そう思います。転校以来、その……何と言うか、型にはまらない……理屈抜きの……めちゃくちゃな言動で学校中を騒がせた彼女ですが、僕は彼女から学んだことが少なからずありました。周囲の皆もきっと同じでしょう。ご存知の通り、スポーツの才能は並々ならぬものがあった彼女ですが、才能以上に大事なこと――懸命であること……まっすぐであることの大切さ……やり抜くと決めた強さ……時には建前や理論を忘れてでも、素直になること。気持ちを受け入れること、自分の間違い、他人の間違いも認めて許せること……」
そこで初めて、俺の耳は機能を復活させたらしい。いくつかのすすり泣きが聞こえてきた。
「僕は、もう一人の会長からそれを学びました。自分だけが正しいと思ってはいけない。正解はひとつじゃない。――彼女は、進んで指導しようとする性格じゃなかった。廃部の危機に陥ったクラブを救ったのも、問題を起こして解散してしまったクラブを復活させたのも、いるかが自ら手柄を立てようとした訳じゃない。少しばかり方法が乱暴でも……ただまっすぐに、それが彼女のやり方だった。当初はあまりに方針が違いすぎて、俺と彼女は言い争いばかりしていたけど……」
思わず言葉遣いが乱れてしまった。まあ、ここに至って一人称なんて誰も気にしないだろうが。
「それでも、今、確かにこう言える。彼女は本当に立派な――我が鹿鳴会に相応しい、立派な会長でした」
また、すすり泣きが響く。
はっきりと分かった。それは大川の泣き声だった。
「……」
ひとつ呼吸をして、俺は続けた。
「但馬館と彼女は何度も戦ったけれど、勝負がついたあとは……誰も彼女を憎んではいなかった。今後も、伝統の好敵手として切磋琢磨し合える同士でいて下さい。どちらも共に武道の精神を礎とする、この倉鹿の人間として。――長くなってしまいましたが、僕の言いたいことはこれだけです。もう一人の鹿鳴会会長、如月いるかを忘れないで下さい。……いえ、わざわざ言葉にしなくても、皆が彼女を忘れないのは分かる。彼女も……」
いるか、ここにはおまえの気配が確かに残ってる。
俺の内側に、皆の心のどこかにおまえがいる。
おまえはこの町の人間だ。これから十年経っても、二十年経っても。ずっと、いつまでも倉鹿の仲間なんだ。だからもう泣くな、ひとり東京で。
俺が行く。
今すぐにでも、倉鹿の名残りを手にして俺が行くから……
「彼女も、修学院のことは一生忘れないと。――そう言っていました」
その瞬間。
誰かが合図をしたかのように、物凄い歓声が上がった。
院長の望んでいた通りの言葉だったのか、今の俺には分からない。倉鹿を離れるにあたり、山本会長が何かしら志のようなものを述べるのだろうと予想していた人も大勢いるだろう。でも、そうじゃなかった。
俺が言いたかったのは……言葉にしようのない願いだったのかもしれない。過ぎ去った時代を、眩しかった時を憶えていてほしい、と。
まだ若すぎる俺には、過去をただ愛おしむ余裕もない。現に、忘れることができず東へ走り出そうとしている。
それは誰かに煽られた願望じゃない。唆された訳じゃない。俺が望んだことなんだ。ひとつの終わりが、ひとつの始まりを作るんだ。
これで良かったのでしょうか――? と尋ねるように、俺は院長席に目をやった。如月院長は微笑んでいた。
「山本会長! 会長!」
気がつくと、拍手の渦の中。
講堂中の皆が立ち上がっていた。
「山本会長!」
「東京でも頑張れ! 如月会長とも仲良くしろよ!」
「鹿鳴会! 鹿鳴会!」
「鹿鳴会ばんざい! 如月会長ばんざい!」
膨れ上がっていくその声に、俺はマイクを通さず応えてみせた。
「――進! 一馬、兵衛! 来い!」
再び、わあっという大歓声。それぞれのクラスの列から、三人が押し出された。なぜか三人とも、不意をつかれて慌てたように目や頬を擦っている。
「おい! 耳がどうにかなりそうじゃねえか」
壇上に三人揃い、手を振って応える中で一馬が叫んだ。
「まったく、おまえ、癪にさわる奴。俺らを泣かせて、てめえだけ清々しい顔してんじゃねえよ!」
進がわめき返した。
「最後まで、春海は春海らしいってことだろ!」
「怖いくらい冷静で、滅多に顔色も変えない優等生。なあ、一馬、進。いるかのおかげで俺たちも、そうじゃない春海ってのを見つけたよな!」
兵衛まで、勢いに乗じて何を言い出すんだ。まったく。
俺は声を張り上げた。これが最後の指揮だ。本当に最後の。
「――卒業生一同、院長と先生方に礼! 三年間、本当にありがとうございました!」
拍手が、歓声が、俺たちの名を叫ぶ声が止まらない。卒業生たちは泣きながら笑っていた。松平先生が眼鏡を外し、涙らしきものを拭っているのもここから窺えた。
壇上から降りると、院長が俺たちを迎え出て――ありがとう、と言ってくれた。
こんな騒々しい卒業式はこれが初めてだ。
そして、きっと。
もう二度とないだろう。
◇
後から聞くところによると、銀子と伊勢は唇を震わせて泣くのを堪えていたようで、それでも結局泣いてしまったそうだ。
大川も日向も、式が終わったあとにクラスで顔を合わせたが、二人とも目が真っ赤だった。大川はまだ鼻をすすり上げていたものだ。
その後は、クラスが企画した送別会。雪組だけなんて反則だと、ほぼ全員の卒業生が押しかけてきた。最後に寄せ書きの色紙を押し付けられ、松平先生も一緒になって写真を撮った。院長も顔を出してくれた。
もうひとつの真相。藍おばさんと徹以外に、親父の差し金でビデオを回していた誰かがいたらしい。何を考えているんだ、いったい……
「東京ではなくて、こちらの事務所の方とお聞きしましたけどね。どうしても倉鹿に戻れないお仕事の日程なので、旦那様からぼっちゃまの撮影を頼まれたと」
「そう……」
まあ、現物を俺当人が見せられる訳でないのなら、それはそれで好きにすればいい。
三月も終わりに近づいた晴天の朝、倉鹿駅に集合した仲間たちは俺を――俺の顔を見て、仰天した。
そこまで驚かれるほど、大した変化じゃないはずなんだが。
「おまえ……大人になっちまったんだなぁ」
しみじみとした一馬の口調に、俺はつい笑ってしまった。
「何でそうなるんだ。ちょっと切っただけで」
「でも、春海」
幾分、涼しくなった俺の耳のあたりを指差しながら、進はにやりと笑う。
「おまえはさ、そういうつもりなんだろ?」
徹と藍おばさんは、もう電車の中に入っていた。
すぐに汽笛が鳴る。明日帰ってくるような顔で出発したい。これが今生の別れだなんて、ここにいる誰一人思っちゃいないだろ? そんな薄っぺらい絆じゃないだろ?
だから、俺は最後まで泣かない。
「けじめって言うと、変かな。……とにかく、そういうつもりで切ったんだろ? その髪」
「いや、昨日までは何も考えてなかったんだけどな。突然切りたくなったんだ」
あれは何かの儀式だったのか。俺の中で。
少しだけ髪を切った。
家と母を残していく、ほんのわずかの後ろめたさから自由になれた気がした。新しい生活へ飛び込んで行ける気がした。
「……」
汽笛が鳴る。
進、一馬、兵衛。大川と日向。銀子と伊勢の七人は、もう今朝は笑っているばかりだった。
こんな晴れ晴れとした春の空に涙は似合わない。
ありがとう、俺の仲間たち。俺の町。これから先もずっと、おまえが俺の心から消えることはあり得ない。
おまえの面影を連れて、俺は行く。行く理由があるんだ。あいつが待ってるんだ。
「じゃあな、春海!……徹とおばさんも元気でな!」
「いるかちゃんによろしくね、山本くん。二人とも元気でね」
「わざわざ追いかけてって、向こうでいるかに振られんじゃないよ。うまくやりな!」
なかなか縁起の悪い激励だな、伊勢と銀子。おまえらと来たら。
「二人で手紙書くよ。……じゃあ、またな」
電車が動き出す。窓越しから、進の目が揺れているのが見えた。進だけじゃない、兵衛も一馬も……
窓から手を振り続けた。速度が上がり、あっという間に友人たちは見えなくなった。
空が青い。あまりにも青い春。こういう空を青雲と言うのだろう。
電車の振動と胸の鼓動が同調する。
置いてきたものたち、昨日まで生きてきた町。どうか許してくれ。今は明日のことしか考えられない。
(待ってる。待ってるよ……)
いつかまた、東の空の下で思い出すだろう。いるかと二人で懐かしむだろう。そしていつか、俺たちは二人で還っていく。最初の場所に、出会った町に。
(東京に行くよ。きっと来年、東京に行く……)
(待ってる。春海、待ってるからね)
約束は果たされ、俺はいるかと再会するだろう。
だけど、その先のことは何も分からない――分からないから進んでいけるんだ。見えない未来へ向かって。
次に会った時のあいつは、もう泣き顔じゃない。
故郷を携えてたどり着いた俺を迎え、笑ってくれる。
それが理由だ。俺の理由のすべてなんだ。
冷静沈着だと誉れ高かった昔の俺。逸る心を知らなかった、あまりにも子供だった昔の自分は髪と一緒に切り捨てていく。
もう他の誰にも、俺の心を動かすことなんてできない。
もうすぐ辿り着く場所で、あいつが待ってる。
あの小さな、恐れ知らずの……俺の『おチビさん』が、待っている。
THE END and
TO BE CONTINUED
REASON or REASONLESS
「……ね、あのね……」
甘ったるい余韻を舌で転がして、いるかが言った。
「あのね、今さら、なんだけど……」
「なに?」
ことが終わればすぐ隠したがるのが悪い癖だ。きれいなレースのついた上着だけれど、邪魔だな。そう思ったので肩から紐を滑り落とす。
「そ、そうじゃなくって!」
「すぐ服着たがるだろ。おまえ。風邪引いちまう季節は仕方ないけど、もう少し見せてくれよ」
「……もう見たでしょ……いっぱい……あのう……」
赤くなりながらも、いるかは健気に抗議してくる。
「もう見せるところ、ないよ。あの、そうじゃなくてさ」
「だから、何」
「あの……春海が東京に来たのは……やっぱり、いい。今さらだし、そんなの」
唐突なその問いだったが、俺は即答した。
「倉鹿で待ち続けたっておまえは戻って来ないからだよ」
「……」
そんなこと──確かに「今さら」かもしれない。
もう一昔前にも思える、
今よりももっと若く、激しく揺さぶられていた頃のこと。
「そういうもんだろ。昔話って、天女もかぐや姫も帰って来なかった。だったら、俺が行くしかない」
どんなに遠くであろうとも。異国であっても、違う星だとしても。
「でも、あの、他にも理由はあって……そ、それが嫌だっていうんじゃないんだよ。巧巳のことだって春海にはすごく大事で、里見にも前からスカウトされてたんだし……だから、あたし……」
「……」
「巧巳のこと知った時、あたし……少しだけ安心しちゃったの。だって……あたしのためだけに、春海の──徹くんだって──じ、人生っていうの? それが変わっちゃったのは……本当にいいのかなって……ずっと思ってた気がするんだ。あたしにそんな権利とか、ないし……」
「……おまえ」
「え?」
「馬鹿だな」
幼い恋人が愛おしかった。
あの頃に戻ったような表情で、あの頃の不安を口にする恋人が。
いるかの体を横倒しにして、鎖骨をなぞり……やわらかい部分に顔を埋めた。くすぐったい、と小さなあえぎ。
「どうして今、そんなこと考えるんだよ?」
「ど……どうしてって……春海の……」
「俺の?」
「さっき、春海の寝てる顔、みてたの……それで、あの……今こんな近くに春海がいるのは幸せだけど、あたしは何もしてなくて、春海がここまで来てくれたから……」
「……」
「わかるよ」
いるかがふいに、俺の髪を撫でた。
「あたしだってわかるもん、馬鹿だけど。あの大事なお家を置いてきて、東京にまで来るなんて……すごく大変なことだって。あたしが今、幸せなのは……春海が来てくれたからだって、いつも、ほんとにいつも……思ってるんだよ……ありがとうって」
「……ばかだなあ、おまえ……」
その言葉だけで満たされて、けれど触れている温かさも俺には生きる上で絶対に必要で。……おまえが。おまえだけが。
おまえだけが俺を……
「さっきから、ばかばかって」
「馬鹿だよ。そんなこと、あたしのために春海は必死の形相で追いかけてきた、追いついても必死で追いかけ回された、って思ってりゃいいんだ」
「へんな日本語……」
「事実だから仕方ねえだろ。──理由なんて……理由は……」
如月いるか。
おまえだけが俺を、変える。
おまえだけが乱して壊す、俺は知らずにいる平穏よりも先の見えない未来を望んだ。
だから俺は確信する。今こうしていられるのは、間違わなかった証しだと。
「"Reason"って、理由の他にも意味があるんだ」
「そうなの?」
「理性とか分別とか。──そういう意味なら、俺は"Reasonless"だったな。あの頃」
理由があって、その一方では理性と分別が乱されて。
理由はある、理由なんてない……それはどちらも正しいのだ。中学生などという時代なら尚更。──いや、それは今も。
ふふっ。と小鳥の鳴き声。
「あの頃、だけ? 今はもう、おとな?……」
「どう見える?」
「そうは見えない。あの頃より、春海はわがまま」
あはは、と声を上げる恋人の髪を梳いて、口を塞いで幕間を終わりにする。熱を帯びるつながった体、名前を呼び合う目映い瞬間。
倉鹿から東への軌道をたどって、俺は来た。ここまで来た。
懐かしい町を今でも胸に抱いて、ここにいる。
思い出していた。
あの夏、俺は何を見たのか。
電車が消えた瞬間に何が見えたのか。
いるはずのないおまえを、あの卒業式に確かに見たことも……
思い出すだろう、この先も。
何度も、何度でも。