黎明




 ため息が出る。


 朝早く、学校で集合して皆で駅伝会場まで行く。
 出場が決まって、ずっと楽しみにしていた日なのに、こんな気持ちであたしは走れるんだろうか。
 ため息しか出ない。
 平気な顔をしてみる。あたしの鏡は嘘をつく。
 あたしは今度こそ、言わなきゃ分かってもらえないと思った。あんなところを見られて、しかも、その場で春海は無反応だった。
 もし、見たのがあたしだったとしたら。
 平気でいられるはずがない。
 好きな人が、目の前で誰かとキスをした――もしあたしだったら、何て言えただろう。
……あたしは、あの時、春海に「どうして? なんで何も言わないの?」と心の中で思ったけれど、同じ立場になったら、きっとあたしも、何も言えなかった気がする。


 巧巳と春海は、いろんな部分が似てると思う。
 お母さんのいない寂しい家で、自分が兄で、家族を守らなきゃって頑張ってる。留守がちで夫婦喧嘩が多いとは言え、両親のそばで育ったあたしには想像もできないものを背負ってる、二人とも。
 それに、多分、性格だって少しは似てる。
 だって春海って、初めて会った頃は――巧巳ほどじゃなかったにせよ――何だか「自分は他の奴らとは違う」っていうような、そんな雰囲気をずっと纏ってて、正直とっつきにくそうな人だと思ったもん。
 あたしは怖いもの知らずだから、そんな春海にも平気で口を聞いていたけどさ。
 才能があって、スポーツも何でもできて、背が高くて、大人っぽくてかっこいい。二人が並んでいると、それに見惚れている子が多いのも頷ける。
 だけど……
 あたしは、あの瞬間も春海を見ていたし、春海の名前しか呼べなかった。巧巳のくちびるの感触は、波が消してしまった。
 それがきっと、あたしの答え。
 あの時、あたしには春海しか見えなかった。 


 だって――全部、つながってる。
 春海が憧れていた巧巳。
 あたしが東京へ帰った去年の夏。
 春海が約束してくれたこと……東京の高校へ行く……
 全部がつながっているから、あたしは巧巳を憎むことはできないし、今こうして考えていても巧巳のことは嫌いにはなれない。
 答えは最初から決まってる。
 ただ、あの場で春海が、あたしの答えを聞かなかっただけ。あたしも何て言えばいいのか分からなかった。
 今日は、春海に会わない訳にいかない。
 巧巳とも顔を合わせる。
 何もなかったかのように話すなんて、できるんだろうか?
 こういう方面では、自慢じゃないけど自分でも不器用で子供だってことは分かってる。そんなあたしに、冷静にふるまえなんて、無理なのに……
 また、ため息をついてあたしはユニフォームを着た。
 早く学校へ行ってしまおう。
 どうせ行かなきゃいけないなら、誰もいない時間に行ってしまおう。そして、春海を待とう……
 あたしは去年、逃げた。
 どんな理由があるにしても、嘘をついて、皆から――春海から逃げようとした。許してくれたのは春海の方なんだ。
 だから、せめて今度は、真正面から春海と向き合いたい。
 嫌われたかもしれないと思うと、やっぱり怖い。
 だけど、このままではいられないよ……
 春海がどう思っていても、あたしは、あたしの気持ちを伝えなくちゃ。そうしないと走れない、前に進めない。
 夏の朝は、太陽が出るのがとても早くて、もう空は半分明るい。今日もきっといい天気、暑くなりそうな熱気がこもっている。
行こう、学校へ……
ユニフォームの上に、私服を羽織るような恰好であたしは電車に乗り、里見への道を歩いた。
グラウンドには、当たり前だけどまだ誰もいない。集合時間にはまだ早すぎるもんね。
 さえずっているのは鳥だけ、黒い烏だけ……


 え……?


 あたしは目を疑った。
 校舎にもたれかかる恰好で立っているのは、春海だった。
――どうしたの、それ……?
 なんでそんな顔してるの……?

「……いよいよだな」
 春海はそう言った。もっと違う表情を予想していたのに……笑っていた。だからつい、あたしも普通に聞いてしまった。どうしたのって。
 笑っていたけど、その顔は傷だらけ……
「これでも、かなり引いたんだけど」
「これでも……って、ひどいよ。どっかで転んだの?」
「……」
 分かっていた。分かってた、顔を見た瞬間から。
 何があったのか、なんて、聞けないぐらいはっきりと……だけど口に出てしまう。他に何て言えばいいのか分からない……
「……誰がやったの。あたしが……!」
「おい!」
 春海があたしの腕を引いた。
「いいんだよ、俺が仕掛けたんだから」
「……」
 誰が春海を殴ったの。
 どうして春海が、自分からそんなことを……仕掛けたの?
 だめだ。
 やっぱり聞けない。だって聞かなくても分かるから――
 あたしは黙り込んだ。
「……」
「俺は」
 そんなあたしを気遣うように――こんな時でさえ――春海は言い始めた。地面に目を落としたまま。
「俺はさ、巧巳のこと憧れてたし……今だって普通の友だちみたいに接してるけど……尊敬する先輩だってことには変わりないんだよな」
「……」
「でも、譲れないこともあるんだよ」
「……」
 夜明けの空に、鳥の鳴き声が続いている。春海の声も続いてる……
「俺たち、里見に入学してからずっと忙しかったよな。クラブ、友達……生徒会のこと」
「……」
 そう、いろんなことがあった。
 まだ半年も経っていないなんて嘘みたいなぐらい、いろんなことがあった。
 その中であたしは、春海と別々の時間、それぞれの世界が出来てしまうことを少し怖がったりもした。
 同じ学校に入学できて、それだけでも十分だったはずなのに……
 実際にそうなってみると、そばにいるのが当たり前じゃんって思い込んでしまう。贅沢になってしまう。
 倉鹿と東京でずっと離れ離れになって、そのまま終わる可能性だってあったのにね……
 こうして顔を見て声を聞けるだけでも、もう十分、幸せなことなのに。
「お互いに、違う問題にぶつかってさ」
「……」
 そうだね、あたしはあたしで、新顔組を認めてくれない女子サッカー部で衝突した。春海は、憧れだったはずの野球部が、生徒会ごと不正を働いていたような状態だった。
 憧れの人だった巧巳が野球部をやめてしまっていた。
 あたしに、言葉ではっきりと言うことはなかった……だけど、入学してそれを知った時は、春海だってショックを受けたに違いない。
 それもこれもすべて、ひとつの流れになって解決はしたんだけど……
「修学院にいた時みたいに、いつもいっしょに行動するってことがなくなってたよな。――できなくなったって言った方が正しいのかもしれないけど」
「……」
 次に春海が何を言うのか、分かるような気がした。
 あたしと同じことを感じてるなら……きっと……
「二人とも、だんだん変わっていくんだ」
 そう……
 そうなんだよね。あたしたち、もう倉鹿にいた時には戻れない。 
 倉鹿にだって本当は、あたしと春海にはそれぞれの世界があったはず。だけど、あの頃はそんなことを意識してもいなかった。
 考える必要がなかった、ということなのかもしれないけど……
 変わっていく。
 それは当たり前のことだよね。だってあたしたちはもう中学生じゃない、ここは倉鹿でもない。もう変わってるんだ、あたしたちは。
 でも、分かってはいても、それを春海の口から聞くと体が動かなくなるのはどうしてだろう。
 聞きたくないのか……言ってほしくないのか……
 それをあたしは、認めたくないんだろうか……?
 変わってしまったらあたしたちがどうなるのかってことを、まだあたしも春海も知らない。――分からない、考えるのが怖いよ。
 ねえ、春海。
 あたしたちは、これからもずっと変わっていくの? 
「春海……」
 辛うじて言えたのは、名前だけ。
「……黙って聞けよ。顔といっしょに、頭も冷やしてんだから」
「……」
 タオルを一瞬、顔に強く当てたあと。
 視界をすべて開けて、春海はあたしを見て笑った。
 その目が何か言っていた。
 言葉にすれば何を言っていたんだろう?
 あたしを宥めるような、誤解させないような笑み。
(――最後まで聞けよ。俺が本当に言いたいのは、これからなんだから――)
「……俺たち、これからも変わっていくんだろうけど」
 そこで言葉を止めて、春海は……まるで、何かを誓うように目を閉じた。
「――だけど、これだけはずっと変わらないって自信をもって言えることが……ひとつだけあるんだ」
「……」
「……おまえが、好きだってことさ」
「……」
 春海はいつも、あたしとは正反対の人だった。
 あたしは難しいことを考えていられない。思ったことをそのまんま顔に出したり声にしたりする。
 中学生の時から、大人みたいに冷静に正論を言う春海にとっては、そのふたつの言葉は矛盾するはずだった。
 今ここにいるあたしたちも、倉鹿で変わっていった果てのあたしたち。
 だから、これからも変わっていく。
 大人になるというのは、そういうことだから。それはあたしも、高校入学早々に思ったことではあったんだ。
 いつも一緒にいられて、天国みたいだった倉鹿。あれは、あたしたちの子供の時代だった。
 懐かしいけれど、時間は過ぎる。
 いつまでも、そこに留まっていられない。
 たとえ今、二人とも倉鹿にいるとしたって、変わることは止められない。そして今のあたしたちは、「あの頃とは違う」場所にいる。
 だから、気持ちが変わっていっても不思議じゃない。
 それなのに、春海は、どうしてそんなにはっきりと言えるの? そんな優しい声で、絶対だって言ってくれるの?
――あたしを好きだってことだけは、変わらないって。
 いつもの春海らしくない。そんな、理屈で説明できないことを断言するなんて。
 お願い、あたしを怒ってもいいんだよ。
 そんな目で見ないでよ。
 あたしに返事も要求しない。傷だらけの春海は、ただ、自分の思いだけを言ってくれる。
――その傷を見れば分かる。
 誰と喧嘩したのか、どんな喧嘩をしたのかって。知らないふりをして聞くなんて、できない。誰かを――尊敬する人を傷つけて、その人に傷つけられて……
 そして春海は今、あたしに自分の気持ちを告げてくれているんだ……
「……春海……」
 あたしは口の中で言葉がからまって、うまく答えられない。
 何て言えばいいのか、分からない。
 知ってたはずなのに、本当はすごく優しいって。でも、今になってあたしは思い知った。
 こんなに、こんなに優しい人だったのかと、涙が出そうになった。
 どうして、あたしのことを、そんなに思ってくれるの。
 どうして……
 泣きそうになったけど、泣かない。
 嬉しくて胸が痛い。でも泣きたくない……そう思っていると顔が近づいてきて……手が触れて……息が溶ける。
「――今日の駅伝、がんばろうな」
「春海……」
 何だか、すごく久しぶりのような気がする。
 春海の……くちびる。
「……やっぱり、痛え」
 あたしの肩を抱いたまま、春海が呟いた。
「だって、見てるだけでも痛そうだよ……」
「まあな。でも、」
「でも……?」
 でもキスしたいんだよ、と囁く声。
 あたしは目を閉じた。

 あんなに不安だった心が、今、目の前に広がる明け方の空のように晴れ渡っていくのを感じる。
 今、返事ができないあたしを許してね、春海。
 いつか言うから。
 ううん、走り切ったらその場で言うから。
 もう大丈夫、あたしは走ることができる。

「いて……」
 よほど痛むのか、また小さな呟き。
 あたしが慌てて春海の腕から離れたら、春海は苦笑いをして、
「おまえがいないと、もっと痛い」
 と、言った。



 夏の朝は眩しくて……眩しすぎて目を開けていられない。
 だからあたしは、春海の腕の中にいる今だけは目を閉じる。
 そうして再び目を開く。
 朝の光の下で、あたしはまっすぐに春海を見つめるの。


 あたしは走る。
 誓いの言葉を胸に抱いて、あたしはこれから未知の空を走る。




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